2021年アカデミー賞 脚色賞ノミネート作品 原題 Eat or get eaten up
貧困から抜け出したいカースト下層の男が野心を胸に成功を目指すが…
その過程で垣間見えるカーストについて下層側の視点から描く。インドのベストセラー作品の映画化です。
コンテンツ
カーストはインドに限った話ではない
映画の舞台はインド。インドのカースト下層に位置付けられている主人公の一族。その中から、ひと世代に一匹=ホワイトタイガーと呼ばれる存在の主人公が、カースト社会を成り上がる過程で様々なものに巻き込まれていく。
インドはカースト制度が色濃く残っていますが、実は日本も明確な階級制度はないものの、所得や生まれの差で格差があるのは紛れもない事実。実はこのストーリーはインドに限らず、我々日本社会でも大なり小なり示唆のある話となっています。
檻の中の鶏は自分の運命を知っていても何も感じなくなる
カーストの中にさらにカースト構造があることが示唆されています。例えば、ビジネスで成功したと思われる人はカーストの上位と思いきや、実は政治家への賄賂やロビイングを通じて誰かの養分になっています。
また主人公の一族も、家族を牛耳るがめついお婆さんの支配下にあり、家族はお婆さんの養分のような描写も。
つまり、階層に限らず、人は誰かの養分になっている可能性はあるということです。
それは一見、成功者に見える人でも実は誰かの支配下にあり、構造的にはあまり変わりがないということ。
ポイントはその環境に何かを感じることができるかどうか
カーストの上位だろうと下位だろうと、誰かの養分である時に、実はそれに対して何の疑問もなく、またそこから抜け出そうとさえしない、これが本質的なポイントとして劇中では描かれています。
その暗喩として、「檻の中の鶏は自分の運命を知っていても何も感じなくなる」という描写。
檻に入れられた鶏たちは、目の前で自分たちの仲間が殺されていくも、あたかも何も感じないように、また抜け出そうともせず過ごしています。作品の中でも、養分として虐げられているように見える側が実はそれに慣れてしまっており、そこに違和感や抵抗を示すことなく、従い続けているというものです。
主人公は次第にそこに違和感を感じ「ホワイトタイガー」になりましたが、これはカースト上位でも起きていること。誰かの養分になっていることに対して違和感も感じず、ただただ当たり前のようにその環境を過ごす。
それこそがこの映画の指摘点だと思っています。私も含め皆さんも辛いと思っているのに、これが当たり前と惰性やただただ時間が過ぎてしまっていたことはないでしょうか。
本当の悪夢は何もしないこと
この言葉は劇中に登場します。深く怖いものです。
そこを脱出した方が幸せがあるかもしれないのに、外の世界を見ようという気も起きないというもの。
この映画はそんな人生をふと我に返らせてくれる作品だと思います。